★ひとファイル★

馴染んだ、親しんだ、愛した、嫌った、わたしが出会ったひと達のお話

語る日

3月中旬だったか、

とある会合の勧誘があった。

とある場所の駐車場にて。

 

後日、会合には参加出来ない旨を伝え

個人的に会の趣旨を聞く、という事であれば、と、約束の日を決めた。

 

直前になって、先方は3人で来る、という。

話が違うな、と少し不快になるも承知して待ち合わせ場所へ。

 

女性2人と男性、わたしの4人で向き合った。

 

彼女らの所属する会のコンセプトを聞き、

質疑に応答し、言われるままにノートパソコンから流れる映像を見る。

 

 

真理とはなんぞや。

正しく生きるとはいかに。

どこかしらで聞き馴染んだ言葉が並ぶ。

 

新規会員募集の為の映像だとするなら、

製作者は素人も素人。ズブだ。

掴みがまったくない。

 

先生と崇められる年配男性の公演の様子。

朗らかに壇上から下々に向かって語りかける。

自身は光っている、のだと言う。

真理を会得したひとにしかわからないという。

 

気、を操るようで、壇上の無骨な男性陣が

老体を前に面白いように転がり倒れてゆく。

 

予想通りの展開だが、だろうね、という素振りは失礼かと思い、表情を抑える。

 

感想を求められ、正直に述べてよいか、と確認してから率直に口に出す。

 

わたしなら、力を誇示しない。

 

以下は心の中だけでつぶやく。

力の真偽が問題なのではない。

なぜ誇示しなければならないのかわからない。

自身が真理の道に辿り着き、それらを

後に続く者たちに分け与えたいのならば

やりようはいくらでもある筈だ。

驕るな、謙虚でいろ、の教えを遂行するなら

その自己顕示欲丸出しのショーは真逆の行為ではないか。

真理に辿り着いた副産物として得たものが何であれ、あくまで副産物ではないか。

 

自身の言葉が真理だとするならば

裏付けなど不用ではないか。

 

何より

宇宙の果てがどうなっているのか、

なぜ人は生まれ、なにを目的に生きるのか、

そんなことは

ヒト如きが知り得ない領域にあると考える。

真偽がわからないからヒトは考え続けるのだ。

答えをどうやっても知りようがないから

こうではないか、ああではないか、と死ぬまで考え続けるのだ。

そうして、最後の最後まで答えはもらえない。

 

答えを知っている?

どうして知りようがある。

知っている、のではない。

結論付けただけの話だ。

 

なるほど、そうだろう、と同意する人を集め

さらに仲間を増やそうとすることの是非をどうこう思わない。

 

いろんな考えがあって

いろんな思いがあってかまわないと考える。

だから間口を閉じるつもりもない。

自身で辿り着いた答えと照らし合わせながら

参考にすることもある。

けれど、ナビゲーターに身を委ねて

ただただ付いて行くのは遠慮したいだけだ。

 

彼女らが口々に言うように

素晴らしい先生なのかもしれないが

日当をはるかに超える講演料を払ってまで足を運ぶ気にはなれない。

その日当があったら、先生の教えをより早く実践するために、他人の窮地を思いやり、ネットでマスクを買い、近隣に配り歩くことから始める。

 

彼女らと敵対するつもりもないので

聞くことはしなかったが、

わたしは知りたい。

私利私欲に走るなと諭す其の方の暮らしぶりが。

 

トタン屋根のあばら屋に住み、

その日食べる分だけの資産を持ち

得た講演料は全て寄付に回し

高級車に乗ったり、スーツを新調したり、

格式高い料亭で宴を催したりしたことがなく、

名前を呼び捨てにされても気にせずいられる、

そういうお方なのか。

 

マスターヨーダをご存知か。

薄汚い身なり。

弱そうにしか見えない身体つき。

すべての賢者がああでなくてはならない、とは

おもわない。

 

が、

 

言葉でひとを束ねようとするのならば

動きも伴わせなければ。

 

強いんだぞ、強いんだぞ、こんなチカラがあるんだぞ、

 

だから?

 

仮にわたしがある日突然悟りをひらき、

宇宙の果ての謎やら生きる意味やらを理解し、

これらの真実を拡散すべし、と天命を受け、特殊なチカラを得たとしたらどうするか。

まずもって

金銭を徴収したりしない。

たくさんの人に伝えたい、と自分が望んでいながら

相手に、だからお金くださいね、とは

口が裂けても言えない。

そのお金が会の運営費になり、真理を知るひとをいっきに増やすために必要であっても、

寄付に回すにしても、だ。

どんな特殊な能力を得ようが、

得意満面でチカラを見せつけたりしない。

むしろ、ひたすらに隠す。

 

 

彼女らが熱意をもって、

自分たちのビフォアアフターを語る様子を

聞きながら

生き易くなった、と感じているならば

よかったじゃないか、と思う。

よりよく生きるためのテキストを与えられ

忠実にこなせば間違いはない、とするのならば

それはそれでひとつの道だろう。

 

列車に乗れるのに

わざわざ歩きたいんです、というわたしを

もどかしく感じるだろうが

より早くゴールしたいわけではないのだ。

ヨーダになれなくてもいい。

自分が生きる意味くらいは

自分で決めてしまいたいだけなのだ。

 

どのみち

答え合わせはできないのだから。